パラオについて
パラオはミクロネシアにあるサンゴ礁でできた多数の島からなる共和国である。九州の真南、フィリピンのミンダナオ島の真東にある。人口は約2万人である。ミンダナオ島からの距離はわずかで、東京と九州くらいである。大航海時代になって西洋人が来るようになり、1885年にパラオはスペインの植民地となる。スペインは1899年にドイツにパラオを売却し、ドイツの植民地となるが、1914年に第一次世界大戦が始まると日本がドイツ軍を破り占領し、その後日本の委任統治領になる。日本は学校、病院、道路などのインフラの整備を熱心に行い、多くの日本人が移住した。そのため今でも日本語がたくさん残っている。デンキ(電気)、ベンジョ(便所)、シンパイ(心配)、カツドン(カツ丼)など多数。第二次世界大戦では米軍のペリリュー島上陸作戦で激戦があり、約11000人の日本兵の98%が戦死した。戦後アメリカの信託統治領を経て、1993年に独立する。
11月19日
朝7時にJAHダイビングクラブに集合、これからパラオにダイビングに行く。メンバーはHさん、Tさん、Mさん、Nさん夫妻、若い女性のAさん、私、クラブのインストラクターのTさんの8人である。HさんとTさんとは顔なじみである。Nさんは私に近い年齢のようだ。T、Mさんは青年だ。車2台に分乗して成田に向かう。空港近くのパーキング銀座の中の一つに車を預け、マイクロバスに乗り換えて空港に行く。8時45分に第一ターミナルに到着。チェックインで荷物が重すぎるので二つに分けてくれと言われる。ダイビング器材は重い。キャリーバッグは器材と衣類などを入れる部分とが離れる構造になっていて、二つに分ける。事前にTさんから言われていたのであわてずに済んだ。ちなみに全重量は27kg、器材は23kgだった。セキュリティ、通関を済ませて搭乗待合室へ行く。
予定の11時5分に中継地のグアムに飛び立つ。雨の中を機は上昇し、雲の上に出る。そこは真っ青な空と真っ白な雲のまばゆいばかりの世界である。しばらく雲をみていたら昼食となる。乗務員はチキンだと言ったが親子丼だった。結構美味しかった。3時間半ほどでグアムに着く。グアムは完全に緑色のジャングルで覆われていた。横井正一さんを思い出す。ここでヤップ島経由のパラオ行きの便に乗り換えるのだが、3時間半の待ち合わせ。おまけに機の点検に手間取り1時間遅れるとアナウンスがあった。やれやれ仕方ない。
ヤップ島に着陸すると機内の点検ということで機から降ろされて待合室に入れられる。90%が日本人だったと思う。ここで面白いことが起こった。40歳代の一人の男が突然係員に大きな声で抗議を始めた。英語でこんな所で待たされるのは心外だ、早く機に戻してくれと言っていた。かなり執拗だったので、とうとう警官が来てしまった。がたいのでかい南太平洋独特の風貌をもつその警官が近寄ると、それまで流暢だった英語がしどろもどろになり言い訳を始めた。ちょうどそのとき女性が待合室に入ってきて、点検が終わったので機内に案内しますと言った。みんなやんやの喝采だった。馬鹿な男だ。ちなみに彼は仲間とは別にビジネスクラスに乗っていた。
夜の10時45分にパラオのコロール島に着陸した。空港の外に出たら真っ暗、暑さは思ったほどではなかった。しかし地面は濡れていた。出発前ダイビングクラブで、南部さんがネットを調べたらパラオはずっと曇りという予報だと言ったが、パラオは11月から乾季なのでそんなことはないだろうと思っていた。ヤップ島は星空だったので喜んでいたら、どうも南部さんの情報が正しいようだ。パレイシアホテルに着いたのは12時頃だった。シャワーを浴び、メッシュバッグにダイビング器材を詰め替えて明日の準備をした。寝たのは1時くらいだろう。
11月20日
朝6時半起床、1階のレストランに行く。外は雨、こういうのをスコールというのだろうすごい。南洋のぎらぎらした太陽をイメージしていたので少し気が萎える。レストランはビュッフェスタイルで珍しいものはなかった。巻き寿司とお稲荷さんがあったのでそれを中心に食べる。8時半にクルーズコントロールというダイビングショップの車が迎えに来る。運転手は現地の人だったが、迎えたスタッフは若い日本人だった。女性が多い。そして私たちのガイドはたかさん、かつやさんの二人の日本人青年だった。ブリーフィングの後、さっそくボートに乗り込み器材をセットし、発進。運転は現地の大柄な青年で平らな海をすごいスピードで南下する。空は曇り、遠くに雲の切れ目にほんの少しの青空が見える。黒い雲が空から海面に落ちているように見えるところはスコールが降っているのだ。スコールを突っ切るときはボートのスピードで雨が痛くまた寒いので合羽を着る。ポイントまで約1時間かかった。
私がしてきたダイビングはビーチダイビングでもボートダイビングでもエントリーしたところに戻ってきてイクジットするものであった。ここパラオではドリフトダイビングになる。海には流れがあり、エントリー後その流れに乗って流されながらダイビングするもので、イクジットするところにボートが移動してダイバーを待ち受けて回収する。
1本目はデクスターウォールというポイント。私はドリフトダイビングは初めてだったので流れのゆるいポイントを最初に選んでくれた。左側に壁、その壁は下に落ち、底は見えない。壁に沿ってゆっくり進む。静かで安定
感がある。青い水の中で浮遊感を感じながらゆったり泳ぐのが好きである。途中海がめが岩陰で休んでいるのを見た。クマノミはどこでも可愛い。そして見ていて飽きない。ここで初めてハナビラクマノミに出会った。背中と胸に白い線がある。身体に1本線のハマクマノミ、2本のクマノミ、3本のカクレクマノミ、背中に白い線のセジロクマノミは見てきた。
6種類いるクマノミを5種類まで出会った。どこかで残るトウアカクマノミを見たいものである。イクジットはアンカーロープが無いので、ガイドの指示とダイブコンピュータを見ながら中性浮力を保って安全停止を行い、その後浮上する。
2本目は少しの移動で有名なブルーホールである。大きなドーム状の洞窟に4つの縦穴が外につながっている。暗く静寂な空間をゆったりと進む。縦穴を見上げるとブルー、幻想的である。すごくいい。晴れていたらもっと明るいブルーで楽しくなるだろうと想像する。ここではカメラの操作を間違えて全部ピンボケで残念。
ボートに上がったのは1時半ころで、お腹がすいた。少し移動してとある島に上陸した。食事をするためのテーブルと長椅子があり、トイレが付設されている。このようなところがいくつか用意されているようだ。お弁当は立派なとんかつ弁当と熱いお茶、やはり日本食は良い。
3本目はジャーマンチャンネルである。ドイツ統治時代にリン鉱石を搬出するために作った水路がジャーマンチャンネルである。ここはマンタが現れることで知られている。最初の待機地点では現れず場所を移す。新しい場所で身体を海底に安定させたらすぐに来た。ほぼ正面からゆるやかに上昇する砂地の海底に沿って上ってくる。3mくらいだろうか。横に広がったひれをゆったりはばたかせ、頭のひれを丸めて大きな口のようにしてやってくる。そしてすぐ右脇を通り過ぎてゆく。何か肉感が伝わってくるような感覚がした。マンタは英語でmanta (ray)、日本語ではオニイトマキエイである。やはりここは海の中だ。
このジャーマンチャンネルはすごく魚影が濃かった。イワシの大群が目の前を通り過ぎる。次は尾びれの黄色いウメイロモドキの群れ。メアジの大群も来た。アジの大群は3回も巡ってきた。目の前をゆっくりとあるいは急いで過ぎてゆく。その後を何匹ものロウニンアジ、英語でGiant trevally略してGTがうゆうと追う。さらにイソマグロ、サメもいる。ナポレオンフィッシュも出現、見上げる格好で見ているので逆光で色は良く判らないが、でっぱりおでこがある。いやーすごかった。
ダイビングショップの桟橋に帰ったのは5時をだいぶ過ぎていた。平沢さんがショップのスタッフからレイを贈られる。今日は誕生日なのである。みんなで拍手して祝った。Hさんは予期せぬ出来事に驚き、そして喜んでいた。器材を水洗いして干し、シャワーを浴びる。早々にホテルに送ってもらう。
夕食はダイビングショップのスタッフに紹介されたアジアン料理のレストラン、エリライに行く。高級感のあるレストランだ。ウエイトレスは若い日本女性、そしてタイ人だろうか、なかなかすらっとしていて魅了的だ。野菜、肉、魚料理をいろいろ注文し、みんなで取り分けて食べる。それぞれ好きなお酒を、私はワインを、飲みながらダイビングや故郷などの話をする。ダイビングクラブで来るときはいつもこのスタイルで実に楽しい。料理は美味しかったが、にんにく料理に少し抵抗感があった。そういえばこの頃家ではにんにくを使っていない。以前は大好きだったがこれも歳のせいか。最後にHさんの誕生祝のケーキが出て、これをデザートにしてコーヒーで締めくくる。ホテルに帰ったのは11時近かったか。
11月21日
今日も曇り空である。昨日ダイビングに加わらなかった幹夫さんも今日は一緒だ。幹夫さんがいなかったので1本目は再びジャーマンチャンネルとする。昨日と同じ状況の中を同じコースをたどってボートは突っ走る。ときどき白いアジサシ、黒いアジサシが魚をとるために海面に突っ込んでいくのを見る。
9時半ころ1本目のエントリー、昨日より1時間ほど早い。
またまたマンタに遭遇する。昨年は石垣島にマンタを見に行ったが会えなかった。それを取り返した感じである。やはりメアジの大群がいた。それを追うアジ科の大きなGT、ホシカイワリにカスミアジ、イソマグロ、グレイシャーク、ナポレオンもいた。要するに昨日と見かけ上何も変わっていない。これが自然なのである。
2本目、3本目は最も有名なダイビングスポットのブルーコーナーである。大きな比較的平らな棚状の地形が先でほぼ直角なコーナーになっている。コーナーにつながる棚の端すなわち稜の部分は深みにずっと落ちている。2本目、3本目はそれぞれ異なる稜からコーナーに向かってダイビングした。ここは流れが速くドリフトダイビングを堪能した。棚の上ではチョウチョウオ、ヨスジフエダイの群れ、ハナビラクマノミ、砂地にはネムリブカなどがいた。コーナーは流れが特に速く、3本目はコーナーの先端でカレントフックによって身体を保持し、目の前に繰り広げられる光景を見ていた。イソマグロ、ナポレオン、きれいな流線型のグレイシャーク、タカサゴ科の小さなクマザサハナムロの群れ、大きなギンガメアジの群れ、細い身体の捕食者ブラックフィンバラクーダの群れ、縦じまのクロヒラアジの群れが目の前をそして頭上を通り過ぎてゆく。多くはこの目で見てみたいと思っていた魚である。15分間くらいだろうか、それはまるで舞台を見ているようだった。素晴らしいの一語である。
昨日より1時間ほど早く帰れたので、ダイビングショップでコーヒーを飲みながら昨日の分までダイブログをつける。ホテルに帰り、ダイビング器材をベランダに広げて干し、ゆっくりシャワーを浴びて、ベッドに横になって一休みする。南部さんと相部屋である。今晩はダイビングショップお薦めの居酒屋“夢”で夕食だ。お酒はお品書きに載っていた里芋の焼酎を飲むことにした。思ったよりくせがなく美味しかったので、これで通すことにした。
メインはマングローブガニである。南太平洋の島に来たのだからやはりヤシガニを食べようと思っていたが、これまでの話の中でヤシガニは美味しくない、食べるならマングローブガニだという結論になっていた。2ポンドのものを2匹頼んだ。なかなかの味であった。いろいろ食べ、飲み、わいわいがやがやだった。店の主人が茨城県出身ということで意気投合、さらにダイビングショップのガイドさんが加わり大盛況となった。ここでも若い日本女性がウエイトレスとして働いていた。フィリピン人と思われる若い女性も働いていた。
11月22日
帰りはパラオ発2時35分、夜中である。飛行機に乗って帰るので、減圧症を防ぐ観点から、最終ダイビングから飛行機に乗るまで18時間以上待つ必要がある。ということは前日はダイビングしてはいけないということである。従って今日はオプショナルボートツアーに行く。ミルキーウエイ、マングローブの森カヤック、ジェリーフィッシュレイク、スキンダイビングがセットになったツアーに参加する。しかし、ジェリーフィッシュはクラゲだと聞いて私は行きたくないと言ったら、そうなってしまった。小さなクラゲがたくさんいてなかなか幻想的だと後で知った。皆に悪いことをしてしまった。ツアーのポイントは、コロール島とダイビングしたところに近いペリリュー島との中間辺りのロックアイランドという地域である。ガイドはこれもまた日本人の若い可愛い女性だった。
天気はなんと晴れそう。最初はミルキーウエイに行く。スピードボートで多数の島を次々と通り過ぎる。みんな背の低い島で、すべてびっしりと樹木で覆われている。ほんの小さな島から大きな島までジャングルである。30分くらいで着く。ミルキーウエイは美しいライトブルーの海だった。石灰岩の細かい真っ白い砂が4、5mの深さのところに沈殿しているのでこのようなきれいな明るい水の色になる。この砂は美白効果に優れているのだそうである。潜るのはお手の物なので他のお客さんの分まで取ってくる。砂というより粘土に近い。私も身体に塗って記念写真を撮る。ここで飲んだ冷えたマンゴジュースが美味しかった。
カヤックツアーの場所にボートで移動する。四角い小さな桟橋からカヤックに乗り込む。二人乗りで私は冨山さんとペアーになる。マングローブのジャングルをガイドさんのカヤックを先頭に進む。水路は狭く曲がりくねっている。両側にはマングローブが密生し、木は太くはないが、たこの足のような根が水中でしっかり土をつかんでいる。水路の深さは数10cmと浅い。途中でガイドさんが、汽水域に生える樹木をマングローブという、マングローブの実は落ちて泥に突き刺ささるように長いなど説明する。確かに20cmくらいあり、インゲンをまっすぐ伸ばしたような感じだ。マングローブのトンネルを抜けると広い場所に出た。小高いジャングルで周囲を囲まれた内海だった。静寂そのものである。何の音もしない、何の変化もない、一匹のフルーツバットが飛んで空気を乱す以外は。パドルを膝に乗せ、パラオについてのガイドさんの話を聞く。パラオは568の島がある。岩に木が生えると島としてカウントされる。3つの島、コロール、ペリリューともう一つだけに土壌がある。日本の統治時代があり、これは知らなかった、日本語が多く残っている。野性の動物は少ない。オームも日本人が持ち込んだなどなかなか興味深かった。このツアーに参加できるのは、潮のかげんが良いときだけなのでついているとガイドさんはボートの中で言った。確かにあの水路は浅いので潮周りが悪いとカヤックは進めない。そして帰るのが少し遅れたからか、潮位が下がりボートが桟橋から離れるのに手間取っていた。
島に上がってお昼を食べる。今日も日本食弁当でお腹がすいていて美味しい。昼食後砂浜を歩く。初めて南洋の照りつける陽をまともにあびる。暑い。戦闘機のエンジンの残骸が波に洗われていた。メンバーの一人がヤシの実を拾って皮をむこうとしたが歯がたたない。ボートのスタッフの青年が新しそうな実を拾ってきて先の尖がった木に打ちつけながら瞬くうちにむいてしまった。穴を開け、飲みなさいというので飲んでみたら、予想と違いくせがなく、ほんのり甘くなかなかのものだった。ボートで他のお客さんにもふるまった。またスタッフがジュースを飲み終わった実を開けて果肉をスライスして食べさせてくれた。柔らかかった。楽しいいい経験だった。
次はシュノーケリングをする。小さな色とりどりの魚の中を海パンにマスクとシュノーケルだけで海の中を自由に泳ぐのは気持ちが良く、楽しかった。帰る途中で岩壁に掘られた穴に錆びた大砲が転がっているのを見た。そしてアーチ状の島ナチュラルアーチを背景に記念写真を撮って、ツアーは終了。
夕食はやはり居酒屋“夢”。板前さんが今日釣ってきてさばいたいそまぐろを刺身で食べる。格別だった。今日もわいわいがやがやで時間が過ぎた。ホテルに帰り荷造りをしてしばしベッドで横になる。睡魔と闘うのが大変だった。
11月23日
0時半に迎えの車に乗って空港へ行く。2時35分パラオ発、やはりグアム経由で9時55分に成田に着く。お昼ごろ家に帰る。
今回のダイビングはあいにくの天気であったが、パラオの美しい海とたくさんの魚に出会うことが出来た。またオプショナルツアーでもいろいろな自然をこの目でこの肌で感じることができた。良い旅だった。
あとがき
私はパラオについて何も知らなかった。日本の委任統治時代があり、インフラを整備し、戦前は4人に3人が日本人という時代があったという。そして今でも日本は援助を続けていて、そのためか反日的なものを感じることはなく、美しくダイナミックなパラオの自然を楽しむことが出来た。一方、第二次世界大戦では日本軍約1万人余りがほぼ全滅するという悲惨な歴史があり、そのほんの一端を目にすることができた。何とも言えない複雑な気持ちである。
私たちが行くところに日本人の若者が多く働いているのに少し驚いていた。コロールにはわずかだがまだ残留日本人のコロニーもあるという。戦前の歴史がそうさせているのだろうか。